私の問題解決の考え方 第14章1

第14章 縁をつかみ、最善を尽くす
     -自分の直感と努力でー



14.1 研究の成果


私は、ある電機メーカーで、半導体素子の製造技術に関した材料研究を30年以上やっていました。特に経験があったわけではなく、初めは、ほぼ素人といえる状態でしたが、実地で学びながら、会社の、そのときどきの、いろいろな問題を手がけてきました。さらに、突発的に起きる、工場で発生する不良の相談にも乗っていました。


後になって振り返ると、面白いことに、手がけた、不良解析も含め、様々な研究を、より大きな目で見た、一つの研究にまとめられることが分かりました。また、個々の研究や解析を始めたときは、必ずしも、自分でやりたいと思うことではなかったのですが、解決を少し進めてみると、各々の場合、興味を持ってしまうのでした。ですから、初めは他人(あるいは会社)の問題であっても、最後には、「私の問題」になっていました。


そして、驚いたことに、これらの研究を問題と捉えたとき、問題解決の考え方が、いろいろ違う研究でも、よく似ていたのです。共通性があったのです。それを「私の問題解決の考え方」として、本論文にまとめてきました。



一方、私が経験を重ねてくるうちに、手がけた多くの問題で、材料の表面や界面の状態が大事な要因になっていることが多いことに気づきました。これらの状態の解析は、普通なら、分析を担当する部門や会社に頼むのですが、時間やお金がかかるし、念入りな検討となると、とても満足な結果が得られるとは言えません。


丁度そのとき、不思議としかいえない縁で(偶然ではないと思う)、こういう分析に使える、エスカという表面分析装置を手に入れてしまったのです。そして、これは、私が、自分の意志で決めて行動したことでした。


しかし、この装置に人がついてくるわけではありません。測定から管理まで全部、私と、その少し前に相棒になってくれたIさんがやらなければなりません。それどころか、この分析でも、私達は素人でした。


それでも、私はこの装置が欲しかったのです。自分で分析したかったのです。


また、うれしいことに、Iさんも、忙しくなるのを嫌がるどころか、献身的に、この装置の立ち上げに頑張ってくれたのです。


ここで特にありがたかったのは、彼が、友達に協力してもらい、シリコン上に極薄シリコン酸化膜のある試料を使い、この分析法(エスカ)の実力を評価してくれたことでした。このことが、後になって、エスカを、金属だけでなく、半導体や絶縁体の試料の測定にまで積極的に利用することを可能にさせてくれて、会社の仕事に大いに役立たせてくれたのでした。


一方、私はエスカに嵌ってしまい、今度は、自らの意思で、「私の研究」として、半導体素子の製造にかかわる「実用表面、界面分析」の研究にも力を入れることになりました。学問の世界では、清浄な表面や界面の状態を研究しようとするのですが、私は、敢えて、半導体工場で実際に使われている、有機物や酸化膜などの汚れがある、表面や界面の研究に挑戦したのです。


そして、こちらでも、行なった各種研究の知見や、考え出した、いくつかの分析法を、上記研究の一部としてまとめることができました。



14.2 実は、縁のお蔭


会社での私の研究は、やったときはバラバラだったのですが、一つの大きなお話としてまとめられました。


論文として書くとき、あたかも自分の意志で、私の頭と努力で完成させた仕事のようにまとめようと思えば、それはできます。しかし、実際には、私は、いい加減で、行き当たりばったりの性格なので、将来やることの計画を立てるのは苦手です。そして、会社だって、一つの話にまとまるように、仕事を与えてくれません。

ですから、この私が、一つの会社に入り、30年以上も研究を続けて、しかも、予め意図もしないのに、全部を一つの話として論文にできることを示した、などということは、私には信じられません。


つまり、これは不思議な縁のお蔭であるとしか言えません。そして、そのことに、つい最近気づいたのです。(今までは、自分が、周りの人達の助けは認めるものの、大事な部分は自分が考えて、やったと思っていました。)



以下、私の人生(研究だけでない)で、自分の進路を決めたような出来事をいくつか紹介します。それぞれの時点で、いろいろな次の進路の可能性があり、私が、それらのうちのどの進路を選ぶかで、実際の方向が決まっていったのです。

それぞれの岐路での選択は、私が行なったものですから、私の考えで決めたものです。しかし、いろいろな可能性は私が作ったことではなく、私の前にそのとき現われた「縁」としか言えません。

いくつかの例を紹介しましょう。普通は、やろうとしていることを助けてくれたような話なのですが、中には、私がやろうとすることを止めさせるような働きかけが、かえって私を助けてくれることになった例もあります。


1)高校の担任の一言

私は高校3年になるまで将来のことをほとんど考えていませんでした。ですから、3年の一学期の進学希望調査のときに、文系と理系の両方を書きました。そうしたら、私の担任が、私には理系の方の大学は無理だ(入試に受からない)と言いました。

しかし、これが決め手だったのです。私が理系に進む。

私としては、この段階でこんなことを言われるのは心外でした。まだ受験勉強を始めてもいないのに判定を下されてしまったのでした。こんなことを言われるなら、やってやろうじゃないかと、急に第一志望をこの学校に決めてしまいました。

自信などありませんでしたが、担任の言うことは聞かずに決めました。

そして、私が決めたことなので、生まれて初めて、目標に向かって進み始めたのでした。この背景には、この大学が国立で授業料が安いということも含まれていました。大学では両親への負担を最小限にしたかったのです。

この難しい目標のために、高校の勉強は前よりきちんとやり、塾や予備校へは行かずに、模擬試験だけは受けることにしました。こう決めた事情は以下の通りです。

まず、それまで受験のことを考えて勉強していたわけではないので、これから本気にやらなければと思いました。塾などへ行っていたら、お金もかかるし、学校の勉強の方が疎かになると思いました。

一方、私の母も、担任の言葉(直接聞いたのは母でした)には大いに憤慨していて、どこかから、私の志望校でやっている模擬試験(学生がやっていた)を受けるべきだと聞いてきたのでした。そして、私がそれを受けたら、結果は惨憺(さんたん)たるものでした。ほぼビリ。

これにはがっくりきましたが、そのときから、この模擬試験(毎月あった)の成績を上げていくことを目標に勉強していくことを決めました。学校の勉強は真面目にやりながら。

母も私の実力を知ってがっくりきたのか、夏休みに英数国だけの短期模擬試験講座があることをまた聞いてきて、私に参加させたのです。これは、さらに難しく、歯が立ちませんでした。しかし、このときから、私は本気になりました。

今度は全8科目の問題集を買って、模擬試験で悪い結果を得るたびに、問題集で関連問題を勉強しました。教科書を勉強し直すというより、いろいろな問題に接することに重点をおきました。夏休みは、夜中に、こういう勉強に力を入れていたと思います。

二学期には、模擬試験の結果がいくらかよくなってきました。学校の勉強はきちんとやっていました。

次の年(受験の年)になると、問題集の中から実際の試験に出そうな問題を選んで、自分で模擬試験をやり、採点もしました。このように、全て、この学校の入学試験に受かることだけを考えた勉強をしました。

恥ずかしながら、この期間の私の勉強は、学問を学ぶための勉強ではなく、試験に合格するための勉強でした。

そして、最後の模擬試験では、まあまあの成績になっていました。ただ一度だけですが。

なお、学校での3年生の勉強は最後まで真面目にやりました。



その後も、自分だけの「模擬試験」を続けて、自分でも想定外でしたが、この入学試験に合格してしまいました。

正直なところ自分にそれだけの実力があるとは思いませんでしたが、とにかく合格してしまったのです。2、3日後、私の祖母に合格を報告したら、祖母は「本当に運がよかった」と言い、とても喜んでくれました。

私も全く同感でした。それにしても、数か月先の人間の能力を知ることはとても難しいことです。ですから、駄目だと思っても、自分が要所要所でできる限りの努力を続けていけば、難しいと思ったことができてしまうこともあるのです。この体験で、このことを学べました。

そして、私は理系へ進むことに決まったのです。(そのお蔭で、この論文を書くこともできたのです。)



さらに、何十年も後に、この入試勉強のやり方が、会社の研究で私が提唱する「チェック機能付き試行錯誤法」の原型になっていた、ことに気づくのでした。

さらに、私がこの難しい大学を受けることを即座に決心したことは、正に、私の言う「まんずやってみれ!」の実行でした。

つまり、このとき、ろくに考えもしないのに、私は「私の問題解決の考え方」の主要部分を、会社に入るはるか前に、無意識に使っていたのです。



このように、担任の先生の否定的な言葉が、私を自分の能力より上の大学へ入れてくれて、私にとってはとても大事な勉強(学問ではありませんが)をさせてくれたのでした。先生には、心から感謝しています。


2)理系の学部には入りましたが

入学後の最初の期末試験で、理数系の科目、5科目も(多分全科目)不合格になってしまいました。理科がそう得意でもなかった私には当然のことだったかもしれません。追試験でなんとか切り抜けました。

そして、このときに知り合った化学の先生が、工学部で金属を勉強したらどうかと勧めてくれました。というのは、この学校では、入学後2年目に専門を決めることになっていて、その時期近くになっても、私自身、何を勉強したいかがはっきりしていなかったのでした。

なんとなく、その先生の言う通り志望したら、それが通ってしまいました。しかし、卒業実験をやってみると、かなり面白くなってきました。そこで、大学院へ行くことにしたのでした。

ところが、卒業の前の年の暮れに、私の父がアメリカへ転勤になってしまいました。

そこで、私は急に大学院をアメリカの大学院にしようと決めて、父の転勤先の市にある大学のGensamer教授(卒業研究で調べた論文で興味を持った研究の著者)という先生にすぐ手紙を書きました。そうしたら、なんとコロンビア大学の大学院へ行かれることになりました。

初めは、修士になれればいいと思っていたのに、奨学金が出たり、研究助手になれたりしたお蔭で、博士課程までお世話になってしまいました。

ここでの研究に、後に私が会社に入ってから直接関係のあることはあまりありませんでしたが、上記のG先生のお蔭で、私はお金をもらいながら、ほぼ自由に研究と勉強ができました。

修士までの研究は材料の機械的強度と内部の微細構造についてのものでした。

博士課程では、材料の破壊について考えたいと思いました(破壊しにくさが強度です)。材料を壊すということは、新しい表面を作ることです。ですから、そのために必要な「表面エネルギー」を含む式で、材料の変形を表して、機械的強度(破壊強度)を理論的に求められないかと、漠然と考えたのでした(後になって考えると難しすぎること)。そのまま、何も成果もない(博士論文の題が決まらない)まま、ほぼ2年間経ってしまいました。

その頃、G先生から、他の学科の先生で、表面エネルギーを含む弾性論(微少変形理論)を考え出した人(R.D.Mindlin教授)がいると聞き、早速紹介してもらいました。話を聴いてとても興味を持った私は、この理論の解釈を論文にしようと決めました。そして、G先生もそれを許してくれたのです。

それから、毎週、M教授のところへ行き、いろいろ討論しながら、論文をまとめることができました。しかし、M先生が「表面エネルギー」だと思っていたものは、全体のごく一部でしかないことが分かりました(表面付近での変形エネルギーの緩和)。従って、破壊の検討には不十分であることを明らかにしたわけですが、学位論文としては受理されました。

私は博士になれたことに満足してしまって、今度は日本に戻り、就職することに集中したので、表面のことは、その後ひとっきり忘れてしまいました。


ここでの成果は、後の私の仕事に、直接、役には立っていませんが、この体験が、研究を行なうときの気の持ち方を教えてくれました。

☆世の中には、分からないことやできないことが非常に多い。

☆人の言うことを鵜呑みにしてはいけない。

☆質問を沢山する。討論をする。

☆専門外のことを恐がらない。自分でやっていることと関係づけて考えてみよう。

などです。


3)日本の某電機メーカーに就職

日本に帰って、日本の大学でお世話になった先生のお蔭で就職できました。

しかし、私はどの会社に入りたいという希望があったわけでもなく、呑気なことに、先生お勧めの会社に中途採用で入れてもらいました。まず、機械部門の研究所で摩擦や摩耗の文献調査をしているうちに、中央研究所へ移され、「半導体素子の製造技術開発」関連の研究を担当することになりました。

ひとっきり、蒸着装置(上記製造に用いられる)を使い、アルミニウムの薄膜を作り、電子顕微鏡で観察したり、工場の不良解析などを行なったりしているうちに、最初のまとまった仕事が来ました。

半導体素子を外部電源につなぐための、素子(集積回路)上の沢山の電極に、リード線を接合させる技術の改善です。この工程の不良が製品の歩留まりを低下させていたのです。

私達が調べると、この不良を起こす要因の一つが上記電極(アルミニウム薄膜)表面の酸化膜や有機汚染膜であると推測されました。


私は、直ちに、この研究には、表面分析が必要だと確信しました。(表面のことを思い出した。)

奇しくも、ちょうどそのとき、元わが社が生産、発売を始めたばかりの表面分析装置(エスカ)の生産を中止することが決まってしまいました。そして試作機が一台工場に残っていて、それを廃棄処分にしてしまうらしいのです。

この装置を買ったら3000万円もするのです。研究所に到底買ってもらえる値段ではありません。新米で、何も成果のない私には。

これはまたとないチャンスと考え、研究所内でも、装置を作った工場の方へも、私達の研究への表面分析の重要性を訴えて、安く譲ってもらおうと頼んだのです。

部長は乗り気でありませんでしたが、私の上司のS研究室長、工場の担当者や工場長(元中央研究所副所長)は親身に私の願いを聞いてくれて、なんと、只(運送費だけ)でこの装置が私のところに来ることになりました。但し、只なので、保証はなし、修理もしてもらえないのです。

また、研究所で人もつけてもらえないので、私が測定も、管理もやらなければならないのです。

でも、私には運がついていたので、上記工場でエスカを作ったTさんが研究所のそばにある工場に転勤になっただけでなく、その頃、私と一緒に働きたいという後輩のIさんが私のところに配属になったのです。

でも、本業の会社の仕事でも素人同然なのに、これも素人(Iさんも)の表面分析にまで手を出さなければならないので、人手不足であることには変わりありません。

しかし、私の予想通り、この分析装置が本業の仕事の役に立ったので、なんとか文句も言われずに、こちらの表面分析の研究も続けられました。研究では、相棒のIさんが大いに働いてくれ、装置の故障のときはTさんに助けてもらいました(Tさんなしではエスカは修理できなかったでしょう)。これで、実質的にとても楽になりました。


本業の、リード線の接合の仕事はとてもうまく行き、不良率も、接合に要する時間も2桁も下がりました。その結果として、工場では、世界一流(初)の自動接合機まで作ることに成功しました。

それと同時に、私は、この接合工程で使う「チェック機能」も開発しました。リード線の接合力を測定する方法を考え出しただけでなく、接合が弱かった場合の解析法まで示しました。そして、この接合力から不良率の予測までできるようにしました。(これが、「私の問題解決の考え方」の「チェック機能」の第一例となりました。)


考えてみたら、この頃、「私の問題解決の考え方」はほぼまとまっていたのです。



表面分析にも首を突っ込んだことで、予想外の問題も発生しました。エスカの「売り」は化合状態が分かることだったのですが、測定を始めてすぐに、測定のために当てるX線の影響で、二、三原子層しかない厚さの絶縁膜でも「帯電」してしまい、このままでは化合状態の知るのは難しいことを自分で見つけてしまったのです。

そして、別の見方(自分で見つけた)で、化合状態の違いを測定することで余儀なくされました。

しかし、その代わりに、リード線の接合で、接合性を左右するのは、化合状態より、むしろ、電極(アルミニウム)表面の酸化膜の厚さであることを見つけました。さらに、エスカで、かなり正確に、その膜厚の定量的比較ができることを示しました。

結局、エスカはとても役に立ったのです。


さらに、何年も後になって、この「帯電」が、半導体素子の電気特性を劣化させる、電子欠陥によるものであることを示すことができました。そして、この帯電を、電位あるいは電流変化として測定すると、この手法エスカでは従来できなかった、微量電子欠陥の検出が可能になることまで示せました。従って、禍だと思ったことが逆に福になったのです。

一方、この検討の準備として、その前に、私はあまり得意でない電磁気学の勉強も、自分では望まないのに、していたのでした。ある年、東北大学の西沢潤一教授(偉い先生)が主催する研究会に呼んでいただき、極薄シリコン酸化膜の帯電について講演しました。この講演会の内容が本になるとき、電気の専門家の編集者(助教授と助手)が私の研究の内容についてケチをつけてきて、私が反論し、手紙で言い合っていたのですが、その片が付かないうちに、主催者が本を印刷してしまったのでした。私はさらに抗議して、結局、相手に非を認めさせたのですが、このお蔭で、私は電磁気学を学ぶことができ、後に、エスカの欠点であると思っていた帯電が電気特性を変動させる要因だということを示すことができました(付録5参照)。


エスカの測定では、すぐに役立ったことは沢山あったのですが、欠点だと思われたことも、最終的には、ちゃんと役立てることができました。


普通だったら、手に入らない高価な装置が私のところに転がり込んできたようなもので、そのお蔭で、会社の仕事にも役立ったし、これらも含めて、この分析の研究が「私の研究」にもなったのでした。

相棒のIさんも、私が来てくれと言ったわけでもないのに相棒になってくれて、ずっと私を助けてくれました。彼は、途中で、他部署に移りましたが、それからも私を支えてくれました。あの長い解説論文(下記;Appl. Phys. Rev.)の執筆のときも彼が図面を全部作成してくました。本当に感謝しています。



4)先端技術の開発プロジェクトに参加

その後、研究テーマは同じでしたが、具体的に扱う問題はいろいろと変わっていきました。また、工場や研究所の他部門からの、いろいろな不良解析の相談にも乗りました。

扱う現象や材料は様々でしたが、どの問題でも、私のエスカ(表面分析器)が貴重な情報を与えてくれました。技術開発の仕事にも、エスカの測定にもかなり馴れてきました。


そんなときに、半導体素子の超高集積化が最重要の課題となっていました。今、私達が高性能のパソコンや携帯を欲しいままに使えるのはそのお蔭なのです。具体的には、数平方センチぐらいのシリコン小片(チップ)の上に、沢山の(そのときは100万個程度の)半導体素子を並べて作らなければいけないのです。沢山の電極や配線も必要です。

そのためのプロジェクトが発足しました。個々の素子(例えばトランジスター)や電極・配線の寸法(幅など)を1ミクロン(1ミリの千分の1)にまで小さくするのが目標でした。

リーダーのAさんに、配線の材料を電気抵抗の低い金属にする(従来は、不純物を増やし電気抵抗をできるだけ下げたシリコンを使っていた)検討をしてくれと頼まれました。あまり乗り気ではありませんでしたが、今までは縁の下の力持ちのみたいな仕事ばかりだったので、少しは最先端の仕事もいいだろうと思って、引き受けてしまいました。これも、まんずやってみれ!の感覚でした。

しかし、それからが大変でした。計画を出せ、打ち合わせに出ろ、もっと早く結果を出せ、などと急(せ)かされました。それなのに、予備検討で使えそうな材料を選んで、いざ試作しようとしたら、その材料は試作工程を汚染させてしまうかもしれないからクリーンルーム(半導体素子の大事な部分を塵や汚染の少ない環境で作るための部屋)に入れられないなどといじわるをされたのです。

クリーンルームの管理者を説得したり、工場の方に試作を頼んだりして苦労しているのを見た、私の部のS部長がなんとか管理者を説得してくれました。でも、条件として、ひとっきり、私達は真夜中にクリーンルームでの作業を行なうことになってしまいました。

私は、その間、グループの人達のお弁当を妻に用意してもらい、夕方から会社へ通いました。ただ、悔しいことに、私はクリーンルームの中に入れてもらえなかったのです。汚染を増やすから!と言われてしまいました。

私は、自分の実験室のエスカで、皆が作ったものの検査をしていました。


皆が必死で頑張った結果、私達が選んだのはタングステンという金属で、これが使えそうだということを示して、学会発表もしました。そして、ありがたいことに、工場も試作してもいいと言ってくれたのです。

ところが、想定外のことが起きました、あんなに金属電極が必要だと言っていたAリーダーが、私には一言の説明もなしに、タングステンは使わないで、他社の多くが検討していたシリサイド(金属とシリコンの化合物)で行くと決めてしまったのです。(アメリカで金属を使おうとしないので恐くなったのです。元わが社の伝統(日本独自の技術を使いたいという)から考えると情けないことです。)

時既に遅しです。私一人だけが騒いでも駄目でした。これこそ、梯子をはずされた、という感じでした。

それどころか、私達は、上記のシリサイドの検討までさせられてしまったのです。さらに、タングステンの検討のときに、違う蒸着法(化学蒸着)の検討までさせられてしまいました。


これまでの記述だけでは、私達は好きなように使われてしまっただけで大損したように聞こえますが、実際は違います。もし、タングステンが採用されてしまったら、私達は最善を尽くしますが、そう簡単に行かなかったでしょう。初めての技術を製造工程に乗せるのは非常に難しいことです。私達がこの仕事に何年も縛り付けられてしまうことになったかもしれません。その前に、駄目だという烙印を押されてしまう可能性もありました。


一方、不採用になったお蔭で、私達の研究は大いに進歩したのでした。

私達のグル-プは、タングステンに挑戦したお蔭で、製造工程のいろいろな新しい問題を経験でき、初めての問題に勇気をもって立ち向かう力をつけることができました。得た新しい知見も多く、海外を含む、かなりの数の学会発表を行ない、論文も沢山出せました。また、メンバーの一人はこの仕事で博士になることもできました。


しかし、一番得をしたのは私かもしれません。

半導体物理の勉強をし、素子特性のこともある程度分かってきました。これは、電極・配線形成やその後のプロセス(製造作業)が電気特性に与える影響を検討するのに必要だからです。勉強すると、ここで問題となる電気特性の変動は、タングステン電極からSiO2に電圧をかけたときに、SiO2内(SiO2/Si界面近く)に生じる電荷によることが分かりました。簡単にいえば、帯電現象です。

ここでエスカでの帯電とつながったのです!こちらでは、X線照射による帯電ですが、帯電ということでは同じです。

この気づきを発展させて、エスカの測定から。SiO2内で電荷になる電子欠陥(微量)の検出とその量が測定できることを示せたのです。


同じような考え方で、シリコン(Si)の微量不純物濃度の検出もできることを示せました。


それまでは、エスカによる不純物の検出限界は、割合で、せいぜい千分の1程度でした。これは不純物元素のピーク強度として検出しようとした場合です。これが従来のやり方です。

ところが、私のやり方では、それよりも2桁以上少なくても検出できるのです。


そもそも、エスカで観察される帯電現象は、化合状態を求めるのに邪魔になる現象でした。しかし、10年以上かかりましたが、それが禍どころか、福、即ち、貴重な情報になることを示したのです。そして、これは、私が上記プロジェクトに参加しなかったら、思いつかなかったことでしょう。


そして、丁度その頃、アメリカの物理学会からの依頼で、エスカと電気特性の関係についての解説論文を書く機会を得ました。

S. Iwata and A. Ishizaka: “Electron spectroscopic analysis of the SiO2/Si system and correlation with metal-oxide-semiconductor device characteristics,” Applied Physics Reviews (J. Appl. Phys.), 79(1996), 6653-6713.

そうしたら、会社に入ってから手がけた沢山の研究が皆この研究(エスカを電気特性に関係づける)につながっていることに気づいたのです。

これは、とても不思議で、興味深いことです。それまで手掛けた、表面、界面分析を含む、過去の研究は、皆そのときどきの会社の問題を扱ったもので、表面上電気特性と直接の関係はなかったのです。それら全部の、10年以上も前からの研究が電気特性につながってきたのです。

これこそ、縁としか言いようがありません。



さらに、シリサイドやタングステン(化学蒸着)の蒸着まで経験したお蔭で、エスカを駆使した、薄膜の密着性の研究までやることができました。その結果、日本金属学会から論文賞までいただくことになりました。

さらに、同学会から、表面、界面分析関係の研究に対して、金属化学部門で、功績賞もいただくことができました。*

このプロジェクトに参加して、途中で嫌なことはありましたが、そのお蔭で、結局は、私のエスカの研究は大きく進歩して、一つの研究としてまとめることができました。



5)K財団への転勤

上記解説論文も完成して、次の研究のことを考え始めたら、転勤の話が来てしまいました。乗り気ではなかったのですが、土曜日には研究所で研究を続けるという条件で受け入れることにしました。

これは元わが社の2代目の社長のKさんが会長の全退職金を投じて作った財団です。

当時、日本の若手の研究者はお金が足りなくて、アメリカの軍から都合をつけてもらったこともあったのです。それを見たKさんは、自分の国の研究者がアメリカのお世話になるのは見ていられないと、自分の退職金をもとに、毎年、何にでも使える奨励金を出すことにしたのです。(国産技術の開発を大事にした人)

私が転勤になった次の年は、ちょうど設立30年目でした。ところが、財団の管理をしている社長室という部署では、記念行事でもやりたいが、お金がないなどと言っていました。

一方、私は転勤になって、初めてこれらのことを知りました。私は上記の話を聞いて、わが社にはこんなに偉い人がいたのかと感心してしまいました。実際に、その後、パーティーなどで、他社の偉い人達と話をしているときに、何回かKさんは本当に立派な人だったと言われました。

さて、財団に来てからの最初の大仕事は奨励金の授賞式でした。なぜか、私は、社長室の部長さんに30周年に記念になることを何かやりたいと提案していたのです。びっくりした部長さんは、上記の理由で無理なので、できないと言いました。

そう言われると頑張りだすのが私で、これまでの授賞式の写真を展示したり、古い受賞者の人達に話をしてもらったりするくらいなら、そんなにお金はかからないよ、と部長さんを説得していたのです。そうしたら、しぶしぶではありましたが、やろうと言ってくれました。

そこまでは全くの思い付きでした。やるとなったら、かなり大変でしたが、財団ができたときの新聞記事を新聞社に提供してもらったり、会社の古い写真を探したりして、なんとか展示するものを決めました。そして、昔の受賞者数人にも連絡を取ったら、皆喜んで出席してくれることになりました。これではお客さんも増やさなくてはと思い、会場も従来より大きなものにしました(借り賃はあまり変わらないので)。

そして、展示は、受賞者の論文集を印刷していた会社に全面的に協力してもらえました。この会社は元わが社の系列会社でしたが、この会社の方が元わが社より、記念行事をやることの意義をよく理解してくれました(そして親切)。

また、会場(経団連会館)も、展示用の台だの、衝立などを、いろいろ用意してくれました。

さらに、元わが社の他の財団の人も、ビデオ撮影係などを買って出てくれました。

その結果、当日は、出席者も例年よりずっと多く(とのこと)、お客さんにも喜んでもらえました。そして、私が簡単な話を依頼した人達の多くは、長々と財団をほめたたえてくれました。

私も、初めて、授賞式の司会をやり、なんとか、初めての授賞式を成功させることができました。

しかし、この会社は変だと思わせることがありました。この授賞式(30周年記念の)の内容を、式の日が近づいてきたある日、社長室の部長にに説明したら、理事長(元わが社の会長)にはこっちから説明しておくと言うのです。そういうものかと思って、そのことは忘れていました(この財団に着任したときも社長室は私を理事長に会わせなかったのです)。当日になって、会場で理事長に呼ばれて、こんなに沢山の人に話させるなと言われてしまったのです。社長室からちゃんと説明していなかったようでした。

今になって、頼んだ人に話すなとも言えないので、一人3分だから時間はそんなに取りません、と言って押し通してしまいました。機嫌は悪そうでしたが、それ以上追及されませんでした。でも、そのため(実際は時間がかかった)か理事長は途中で帰ってしまいました。

社長室長というのは重役でもあって、相当偉いのだそうです。そして、私達一般社員が社長に何かを言いたいときには、まず、社長室に伺いを立てなければいけないのです。さらに、この部署は下にはとても偉そうな態度を取るのです。一方、社長や会長には僕(しもべ)のごとく立ち振る舞うのです。見ているとこっちがおかしくなりそうでした。

社長室はともかくとして、授賞式をなんとか終わらせたことで、いくらか仕事が面白くなってきました。いろいろな研究分野の受賞者の人達に会い、話すことができるからです。受賞者の論文の編集だって、面白いこともありました。授賞式の準備や司会もそういやではありませんでした。論文の選考でも勉強になることが沢山ありました。


ひとっきり経ってから、財団の今のやり方はとてももったいないなと思いました。

それまでの30年にわたって受賞した人達は、優秀な頭脳の集団なのです。でも、皆ばらばらです。

分野が違う研究者が互いに付き合うことができたら、新しい研究成果につながるのではないかと考えました。個々の研究の詳細は互いに理解できなくても、「問題を解決させるときの考え方」ということなら、異分野の人達でも分かり合えることが沢山あるので、これが糸口になり、異分野間の交流が広がるかもしれないと思いました。

これを思いついたのは、研究所にいるときに書いた長論文(上記)で、個々の研究での考え方が互いによく似ていたことからでした。また、財団へ来てからも、問題解決の手法という目的で、確率論の勉強をしていました。

この考えを社長室の人に話したり、受賞者の何人かに相談したりしました。社長室には全く取り上げてもらえませんでした。受賞者の一人は、にやにやしながら、こんなことをしたら、会社から、お前は財団を私物化しようとしていると言ってたたかれるよ、と言いました。(この人はとても頭のいい人で、もしかしたら的をついていたかもしれません、財団が「私の財団」になりかかってきたのかもしれません。)


その後、社長室の方は、

この財団が元わが社のものであることが分かる名前に変えたい(今まで入っていなかった元わが社の名前をKの前に入れる)。財団を、Kさんゆかりのという意味で特殊なもの(研究者の所属に制限あり)だったので、より公共(一般と同じ)性のあるものにしたい(誰でも応募できる)。

などとして、私にこれらを実行するように迫ってきていました。


私があまり積極的でなかったためか、規定で(入るときは「規定」よりずっと長くいられるはずだった)ということで、私は退職することになりました(クビになったみたいでもありました)。もっとも、私も爆発寸前でしたので、よかったのかもしれません。私が駄々をこねて辞めるという形にはしたくありませんでした。

これで財団については、これ以上のことはできなくなってしまいました。しかし、ここでも、実は、私には得をするところがあり、大事なことも学べました。

☆つまらないと思うことでも、まず始めて頑張ってみると、面白いし、いい結果を出せる。

☆確率論の勉強により、一般的な、「問題解決の考え方」というのがあってもいいと思うようになった。

財団勤務でも、事務の仕事の中で、私の研究に進歩をもたらしてくれたのです。



6)秋田県立大学でお手伝い

元わが社の知人でこの大学の教授になった人(Oさん)からの依頼で、一年間秋田へ行くことになりました。

新しい研究室を立ち上げるにあたって、薄膜の密着性の研究を始めたいとのことでした。

そのとき、ちょうど東京の母が介護サービスのお世話になるようになったので、できれば遠くへ行きたくなかったのですが、始終いなくてもいいと言われ、引き受けました。

しかし、行ったら、想定外の展開になりました。



到着後、最初の出勤日に大学へ行く途中の喫茶店で朝食を食べたら、新鮮な山ワサビの漬物が出たのです。これがご飯によく合い、最高だったのです。ちょうど4月からは山菜が出てくるので、食事のときにいろいろ食べさせてもらいました。こういうこともあって、私は朝と夜ここで食べることにしました。そして、ここのS1さんとは気も合い、すぐ友達になってしまいました。そして、私は山菜に狂ってしまったのでした。

彼女のお母さんも朝晩ここで食事をしていて、二人とも山菜採りが好きでした。お母さんの秋田弁が分からないときもありましたが、毎日仲良く話せるようになりました。

その頃、長女一家が栃木から早くも来てくれました。そして、一緒に花見に行ったときに、ワラビを採っている人達に出会ったのです。私も娘もワラビとゼンマイの区別ができないくらい山菜のことを知らなかったのですが、知らないうちに、そこの人達に加わってワラビを夢中で採っていたのです。

この大学のある本荘(後に合併で由利本荘市になる)には昔から朝市がありました。そこへ行くと、いろいろな種類の山菜が売られていました。

また、学校の裏の田んぼへ行ったら、そばにいいセリを見つけたし、ワラビまで見つけてしまいました。誰にも教わらないで。

知らず知らずのうちに、「まんずやってみれ!」(何かをやりたいときにはまずそれを始める)を実行していたのでした。この言葉も、このときは知りませんでした。とにかく自分で山菜を探し始めたのです。

それからというもの、昼休みは、学校の裏山へ行ってはワラビ採りやその他の山菜探しをしていました。なにか見つけると、上記喫茶店や朝市へ持っていき、教えてもらっていました。また、山の中で会った人にも、いろいろ教えてもらいました。

そして、ちょっとの間に、地元の人達と山菜談義ができるようになっていました。

(それからは、秋田の方がよくなってしまい、母も調子がよかったので、月に一回帰り、そのときに母の様子を見ていました。)



これは、「まんずやってみれ!」の重要性を示す、大事な例の一つだったのですが、そのときははっきりと認識していませんでした。自分から積極的に山菜採りをまず始めたのがきっかけで、山菜に夢中になってしまい、ちょっとの間に山や林の中(近くに沢山ある)を歩き回り、結構山菜を採れるようになっていました。

そうしたら、こちらにも山菜の好きな人が多かったので、友達も沢山できてきました。



しかし、O先生の研究室で密着性の研究を立ち上げるという仕事を始めようとしたら、この研究に対して、先生も助手も、あまりやる気がないことが分かりました。

それまで特に何かをやろうとしていませんでしたし、この研究での私のやり方を説明しても、私が使っていた密着性試験機を発注しただけで、後は来てから始めればいいと思ったらしく、何かを自分で始めようという考えはないようでした。

O先生は、どうも、密着性の研究を、卒業研究の一つにできればいいと思っていたらしく、その時期になったら、4年生のA君にやらせることを決めました。そして、私に指導までしてくれと言うのです。しかし、私がそれをやったら、研究室には何も残らなくなってしまうので、具体的な指導は先生と助手にしてもらうように頼みました。ただ、やるべき実験と、期待される結果を教えて、途中、相談にはいつでも乗ることにしました。

一方、その少し前に、私の知っている、表面分析器の会社の人から、私が使っていたのと同じ種類の分析器(エスカ)の中古品をとても安く売ってくれてもいいという連絡が入りました。これが手に入ったら、この研究室の、表面、界面が絡んだ研究に大いに役に立つので、O先生に知らせました。彼は喜んで、これを買う決断をしてくれたのです。そして、密着性の実験が始まった頃に、入荷し、その会社の人が来て使い方を教えてくれました。

しかし、O先生も、助手も、自分は教えてもらおうとしないで、A君に、その役を押し付けてしまったのです。後になり助手がA君から使い方を学んだのですが、ここでも、研究室としてのやる気のなさが露呈してしまいました。

それでも、A君はこの装置が使えるようになっただけでなく、実験の方でも、ものすごいやる気を見せてくれ、私の予想した結果も出て、卒業論文もめでたくまとまりました。

しかし、その少し前に驚くべきことをO先生から明かされてしまいました。彼が、この大学を辞めて、自分の故郷のそばにある大学に移ると言うのです。これには唖然としてしまいました。

これでは、何のために私がはるばる秋田まで来て、1年もの時間を費やしたか分からないではありませんか。密着性の研究をこれ以上続けるのは無理でしょう。私にお金を払ってくれた秋田県は大損です。


いや、全体を見れば、何人かの人達には、ちゃんと役に立っていたのです。

まず、A君は、初めてのことに、「まんずやってみれ!」の精神で挑戦してくれて、ものすごい頑張りを見せ、表面分析と密着性試験の両面できちんと学んでくれました。多分、これからの人生で、「まんずやってみれ!」を忘れないで生きていってくれるでしょう。

私も、この一年で、問題解決を可能にするために、「まんずやってみれ!」が大事だということを確信しました。それまで、自分で実行はしていたのですが、はっきり認識していませんでした。

さらに、この大学での一年が終え、帰る前に、まとめの講演をしました。その講演には地元の人達も来てくれました(付録1参照)。題は

「まんずやってみれ!んでねば、やる気も出でこねえ。」

でした。何人かの人達(皆地元の人達)が自分もこうしたいと言ってくれました。

その一人、Mさんは実際に実行してくれて、とても役に立っています。



さらに、私は、この一年のお蔭で、問題解決についてよく考えるとともに、論文「私の問題解決の考え方」を書き始めることができました。

そして、問題解決研究所というのを作って、相談まで受けるようになりました。そのとき、ほとんど毎回、まんずやってみれ!と言っています。



勿論、秋田へ来たお蔭で、私は山菜採りの「名人」になり、それからもずっと山菜の「研究」を続けています。

また、毎年、この大学のある由利本荘市を訪れ、大勢の友達と会っています。そして、いつも「まんずやってみれ!」が話題に上り、問題解決について語り合っています。皆さん、それぞれの道で頑張り、前進しています。


そもそも、「まんずやってみれ!」という言葉を使い始めたのは、私の帰る前の講演のときで、話を、地元の人達に理解しやすくするために、隣の研究室の助手のSさん(秋田出身)に教えてもらったのがきっかけでした。

その後、Sさん自身も、「まんずやってみれ!」の精神で、この大学をやめ、県立高校へ移って、秋田の博士先生の一人として頑張っています。やはり先生をしている奥さんとともに、私の大事な友達で、秋田へ行く度に会っています。


7)その後のお手伝い

この大学の後、これらも不思議な縁で、二つの会社の、それぞれ、顧問とコンサルタントになりました。そして、それらの体験から、「まんずやってみれ!」について、さらに検討することができました。

前者のU社は、ベンチャー会社で白色発光ダイオードを作ろうとしていました。社長はとても馬力のある人で、社員も必死で頑張っているようでした。私は、ここでも、表面分析器の導入を助け、新しく入ったB君の測定の指導をしました。

皆、社長に命令されると素早く着手し、夜も遅くまで仕事に励んでいました。

しかし、私から見ると、彼等は社長の言う通りにやろうとはしているのですが、全体として、何をやっているのか分からないように見えました。新技術の開発なので、分からないのはいいのですが、分かろうとする意欲が欠けているのです。研究会などへ行っても、他社や大学などの、関連した実験結果から貪欲に学ぼうとしようともしないのです。つまり、何かをやったとき、新しい結果が出ても、自分であまり考えていないのです。 

これは、社長がいるからです。結果について考えるのは社長で、社員は次の命令を待つのです。ただ、社長は部下のやったことを細かいところまで分かっていないこともあるので、きちんとした考察がしばしばできないように見えました。

私自身の場合を振り返れば、まずやってみるのは私で、その結果について考え、今度何をやるかを考えるのも私なのです。そして、やることも私の目標のためなのです。私の問題なのです。

そのとき、この会社でも新しい分析器エスカを導入することになりました。そして、新入社員のBさんが担当になりました。彼はエスカの測定を真面目に行なって、その結果(試作した材料の状態)と作り方との間の関係がいくらか分かるようになりました。これにより、少しずつ暗中模索の状態から脱出する可能性が出てきました。

ただ、そのときの試料の作り方では、使えそうなものはまだ何もありませんでした。つまり、今までの考え方、そのまま頑張っても、桁違いの変化を引き起こすことは難しいと感じました。それまでは、作る膜の不純物や欠陥をできるだけ減らすように努力していましたが、むしろ、これらのうちどれかを増やすような試み(初めの考え方を変える)が必要かもしれないと感じました。ここで「まんずやってみれ!」(これまでのやり方を止めてみれ!です)を社員にやらせ、各々に考えさせる(自分の命令を減らす)勇気とお金があったらよかったのにと思いました。

しかし、その時点で資金が足りなくなってしまい、この検討を続けられなくなってしまいました。また、私もいろいろ勝手なことを言ったため、クビになってしまったのです。その後、U社は細々と存続はしていましたが、どうなったか今では分かりません。



後者の会社は、シリコンウェーハを作る会社でした。そこの、設備が揃い、お金も沢山ある研究所の技術開発のお手伝いです。

他社が独占して作っていた製品の後追い研究プロジェクトです。

この会社でも、メンバーは言われたことは素早くやり、残業や休日出勤を続けていました。

こちらでは、前の例とは違い、自分で考えてやろうとする人もいたのですが、こちらは組織が桁違いに大きいのです。プロジェクトの中で、大会社の中の上下関係、違う部署間の対立、人間関係などが複雑に絡み合うだけでなく、全ての面でミスが多かったのです。実働部隊の人達は相当なストレス状態になり、うつ病になる人もいました。

これでは、私の出番ではなかったのですが、私に頼んでくれた重役さんにその後も頼むと言われ、一ヶ月に一度程度、その年度が終わるまで、開発会議に出て、できる限りの助言をしました。

ここで学んだことは、U社と同じく、何かをやった後自分で考えて、判断できるかということ、それから、S社では、人間関係の影響(話が通じ、共通の目的意識が持てるかなど)の大きさをつくづく実感しました。

また、ここでも、今の状態で苦労するより、初めに戻り、薄膜の蒸着のやり方を大きく変える(新しい装置にする)というような荒療治が必要かもしれませんでした。これ(今までのやり方を止めてみれ!)をプロジェクトとして決意できたら、今度は目標達成が可能だったかもしれません。



以上、それぞれの問題の解決はできませんでしたが、元わが社退職後、「まんずやってみれ!」の重要性と意味についての理解が大きく進みました。(まんず止めてみれ!というのもしばしば大事なことですが、難しいです。私としては、これも「まんずやってみれ!」の中に含めることにしました(止めることをまんずやってみれ!と考えて))。



最後に、原発の問題について、「まんずやってみれ!」のことを念頭に、もう一度考えてみましょう。

そもそも、中曽根元首相が、原発を国策で推進すると決めることができたのは、まず、原発の検討のための予算案を、反対する余裕も与えず通してしまったからです。その後、次々と他の関連法案も成立させてしまいました。慎重に検討するより、素早い実行の連続で、原発の導入を国策にしてしまったのでした。

これは、ある意味では、見事な「まんずやってみれ!」です。(ただ、この場合、原発の危険性についてきちんと考えないで始めてしまったのです。これは、国民の安全のことを考えないという、犯罪に相当するようなやり方です。安全だと嘘をついたのです。こんなことをしたのは、お国のために、日本を世界大国の一つにするために、どうしても核保有国になりたいという下心があったからです。)



安倍首相のやり方もかなり似たところがあります。中曽根氏の真似をしているのか、教えてもらっているのかもしれません。

何かをやり遂げたいときに、早く行動に移すことは極めて大事ですが、間違っていたり、よくなかったりする目的のときは、状況を悪化させてしまいます。

ですから、「まんずやってみれ!」を実行するときには、目的の良悪をきちんと判断してから始めるべきです。



なお、ここでも、上記の二つの問題と同じく、現在、国は原発を止める決心ができない(しない)のです。この場合は、原発を続けるのはよくないのが分かっているので、国民の安全と安心を第一に考える国なら、とっくに止める決心をしているはずです。ところが、これまで恩恵を受けてきた利権と、当面の経済を優先にして、原発にしがみついているのです。もしかしたら、どうしても核保有国でいたいということの方が本当の理由かもしれません。

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